村田知己氏の講演の骨子
花巻東高校に来ることを楽しみにしていました。実は8月に寝たきりになってしまい,それまでは,片足ながら立つこともできたのですが,とうとう車いすの生活になってしまいました。
僕は,宗教も国籍も年齢も異なる人々が笑って暮らせる社会を作ることが夢です。僕は人と接するときは「メモをとる」・「目線を合わせる」・「存在で周りを元気にする」ことを心がけでいます。なぜなら,あなた次第で人生が変わってくるからです。
僕は障害を持って生まれてきました。そのため小学校入学時に就学猶予通知書なるものが役所から送られてきて,小学校に通学することもできませんでした。幸い両親とも教員であり,家庭教師にも教わることができましたが,一人だけではどうしても身につけることができないことがあったので,アメリカンスクールに通学することになりました。そこで「恩送り」ということを教わったことが,その後日本初の重度障害を持つ国際ボランティア活動に繋がっていったのです。活動を通して,自分の存在意義を改めて確認できました。
自分の小さかったときの体験を話します。岩手に帰ってきて小さな駅で母と迎えを待っているとき,僕らと同じ年格好の母と子どもが居て,たぶん聞こえないと思って話したのでしょう。母が子どもに「ごらん,お前も悪いことをするとあのようになるのだよ。」僕らの方を見ながらしゃべったのが聞こえてきたのです。僕は母親に「なにか悪いことを,僕がした?」と聞きました,母は黙って泣くばかりでした。
学年が進むに連れて,僕は都南村にあった施設で生活するようになりました。そこには120人ほどの障害を持つ子どもが治療を受け,学習する場所でした。面会日は月の第3日曜日だけで,その日だけしか親と会うことができませんでした。
障害を持って生まれてくる子どもは,障害を持って生まれたい訳ではありません。また障害者になった方は,そうなりたくてなったわけではありません。しかしながら日本の社会やシステムは,障害者と健常者は分ける(隠す)ようになっています。私たちは健常者と同じように生活して,給料をもらって,税金を払いたいのです。私たちだって社会の一員になりたいのです。
僕がアメリカンスクールで学んだ言葉の中で「チャレンジド」という言葉があります。障害者を表す言葉です。欧米の社会では神に愛されたから障害を持ったと考えているそうです。日本の社会が差別や偏見が無くなり,健常者も障害者も分け隔てなく笑って暮らせる社会に,早くしたいものです。
僕は,この夢が日本だけのものであってはいけないと考え,フィリピンのマニラの子どもたちへの教育支援の活動に携わってきました。世界的に見て,障害だけではなく経済的にも恵まれない子どもたちは数多く存在するのです。僕はたくさんの人たちにお世話になったわけですから,何らかの形で返さなければならないと考えたからです。
僕からみなさんに望みたいことは,みなさんには,昨年度の硬式野球部の活躍のように人を勇気づける力が有るわけですので,それを存分に使っていただきたいのです。 |